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A Vermilion Calm (朱色の凪)

 

藤家溪子(音楽&ストーリー)による全2幕オペラ

オンライン配信 

2月25日20時~3月25日0時まで

 

チケット 1000円 

ご購入はこちらから!


ベルリンのルドルフ・シュタイナー・ハウスで2023年1月15日に公演された「A Vermilion Calm (朱色の凪)」の模様をオンライン公開します。日本の文化のエッセンス、象徴、美意識が西洋の音楽と融合し、切ない孤独と憧れの本源への夢幻の旅に、見る人々を誘います。

冬の終わりから春夏を経て秋の深まるまでの、海辺の物語。ことばを話さぬ「どこか普通でない少女」との出会い、深まる想い、掻き立てられる不安。新月の暗闇に残されて絶望する男は、やがて朝凪の時刻に日蝕を見る。
これは揺れ動く境界の物語でもある。潮の満ち干で揺れ動く、海と陸の境界線、 ヒトとヒトならぬものを分ける境目/「鶴女房」の如き異類婚姻譚、性の境目/男のうちの女性性、女のうちの男性性、天と地/飛翔するものと地に縛られるもの、魂と肉体、狂気と正気、境界を超えて、一方が他方を侵す瞬間が訪れ、そしてまた元のバランスへ還っていく。その、侵し侵される時に、何かが起こるのだ、、、。
あらすじ

浜辺。それは陸と海との、揺れ動く境界線。

浜辺の家に、若者が住んでいた。
白くて細長い指を持ち、その指のように敏感で繊細であるがゆえに、社会の現実と闘うことに疲れ果て、自分自身の中に逃げ帰った日々を、浜辺の独り住まいに過ごす「彼」。
果物のみを食し、花を愛で、詩を詠み、純化された平静と観照とを信条とし、静かな生活を送る。

冬、浜辺の散歩で、「母」と、どこか普通でない「娘」に彼は出会う。母の肩に寄りかかって歩く、黒目がちの不思議な娘。

春浅き頃、ついに彼は娘と二人きりの午後を過ごす。
母は娘をおいて去り、彼と娘との心地よい同居生活が始まる。一言も口を利かないながら、素直な娘。娘に触れずにそっと見守る彼。

全ては静かで心地よく過ぎるが、、、夏に向かうにつれ、抑えがたく募る娘への愛着のために、彼の「純化された平静と観照」は破られ、その「信条」は、自らの内の「野性」に、凌駕されかかる。
ある夜、短い旅行から戻ったとき、目を見瞠るほどの成長と変化を遂げた娘を見て、彼の心に疑いが兆す- 他の男の影?
夏の盛りを楽しむ二人。娘は、日に日に力強く、美しさを増し、彼の心に称賛と不安を掻き立てる。

秋が深まった頃、不思議な物音に、毎夜悩まされる。
次第に落ち着きをなくし、不思議な声を発し始める娘。不安に苛まれ、取り乱す彼。窓辺に、再び姿を見せる母親。母の呼び声に応じて出て行こうとする娘の姿を目の当たりにして、激しい感情と葛藤に引き裂かれる彼の心。

個人と社会の、ついに調和する事なき、深き矛盾を実感してきたはずの彼の心は、自らの内にもそれに劣らぬ「深き矛盾」を見いだす。絶望して、新月の真っ暗な闇を縫って、娘の後を追う彼、、、。
ストーリーには、異類婚を匂わせる部分がある。怪我をして、渡りに加われず、ヒトのもとでひと夏を過ごしたヒドリガモ。ヒトの目には春先の出会いの頃、可憐な少女と映るが、夏を経て怪我も癒え、みるみる美しく、かつ逞しい姿に変わっていく。

カモ類の雄の羽は多くの場合、雌とは異なる綺麗な羽色である事が多い。しかし、この綺麗な羽は繁殖期のためのものらしい。繁殖期の後の換羽期に生えてくる羽は、雌の羽に似て地味な色合い。細かい違いを知らなければ、この時期に雄、雌を見分けることは難しい。換羽して、雌のような地味な姿になった雄のカモの状態をエクリプスと呼ぶ。本来は、日蝕、月蝕など、天体の「蝕」の意味 = 一時的に光を失った(あるいは弱められた)状態の意味である。
このストーリーは、ラストの日蝕の場面を含めて、力の衰退と復活、それは、せめぎ合う勢力のバランスの変化でもあるが、その象徴としてエクリプスを扱う。エクリプスはまた、雌伏=機会を待ち、じっとしているべき時期、とも解釈される。

出演者

カウンターテナー

 

Caroline Redl

演技

Kanahi Yamashita

ギター、メゾソプラノ


Jan Skopowski

チェロ

Ezgi Tanriverdi

ピアノ

Moritz Meyer

舞台照明


このオペラは、ポーランドを代表するカウンターテナー歌手であるヤン・ヤクブ・モノヴィドを念頭に置いて作曲され、2020年にポーランドのヴロツワフで初演されました。

ベルリンでは、このオペラをよりコンパクトな新形式で上演し、実験的な挑戦をしました。ポーランド初演で活躍した主席歌手と主要音楽家を招聘し、新キャストとしてドイツの注目女優キャロライン・レドルが加わり、日本の若者の深い孤独や現代社会のコミュニケーション問題の闇を、合気道3段の保持者ならではの身体表現で表現します。 また、シュタイナーハウスというユニークな空間を生かし、同時に日本文化の持つ空間と時間の感覚を光と影で表現することを目指したいと考えました。

この作品は室内オペラと呼んでいますが、作曲者の藤家溪子は日本人で、自らリブレットも書いており、日本の伝統演劇である能の影響を強く受けています。

 

 楽器奏者は(ピットではなく)舞台上にいて、それぞれに舞台での存在理由と役割を持ちながら演奏に参加しています。オペラですので主な要素はもちろん音楽 - 歌ですが、照明の変化と歌手や役者の動きが相まって生み出す微妙な陰影が、主人公(青年)の心理的変化と交錯し、そのすべてが音楽に吸収され、主人公の内面と外界を一つの小宇宙として表現しています。

このオペラの主なテーマは 1.コミュニケーションの本質への問い、2.あらゆる境界の流動性。
1.本質的に他者を「知る」ことの難しさ、自分の理想を他者に投影し、それを愛だと思い込むことの危険性、傷つくことを避けるために他者と深い関係に踏み込むまいとする現代のあらゆる手段や慣習...そしてその結果生じる孤独の深い闇。
2.昼と夜、陸と海、男と女、野生と理性、その他あらゆる二元性の境界の流動性。両者のバランスは実は変化し続けています。それをオペラの中で季節の移り変わりや天体の動きに沿って表現し、観るひと一人ひとりにいきいきと感じ取ってもらい、願わくばそれが心の開放、そして癒しに繋がっていけばと思います。
 ベンジャミン・ブリテンが能「隅田川」を題材に作曲した「カーリュー・リバー」は、現在でも欧米で人気の高いオペラです。しかし「カーリュー・リバー」から60年後、SNSの劇的な普及やCOVID19の世界的大流行などの影響によりコミュニケーションの形態や実態、人と人との関わり方が大きく変化した今、日本、ドイツ、ポーランドの演奏家が新たなコラボレーションを通じて、この時代における東西の相互理解を深めることを目指すのは非常に興味深いことではないでしょうか。本作品はこうした劇的変化の最中に生まれ、資金面はもちろんのこと、上演に至るまでにさまざまの困難に直面しました。しかし、作品のテーマと社会情勢は表裏一体で、今の世の生きづらさ、孤独、苦しみを視聴者の皆様と共有するため、社会の鏡としてそれを映し出し、共に希望と進むべき道を見出すことがこのオペラ制作の目標です。
オペラというジャンルの役割も時代とともに変化し、これからも変化していくはずです。オペラは特権階級の贅沢な娯楽として始まり、ラジオや映画のない時代には、夢のあるファンタジーやラブストーリーにとどまらず、実際の歴史的事件や政治問題など、社会の多様な面を表現するさまざまな内容で構成されていました。映画制作やテレビ、さらにはインターネットが普及した今、オペラの「存在意義」は何なのでしょうか。 欧米 各都市のオペラハウスは観光名所になってはいますが、多額のオペラ制作費の回収は見込めず(それに見合う集客ができないため)、政府の支援なしには経営は成り立ちません。一定の集客が見込める人気演目は各都市で繰り返し上演されますが、それ以外の演目、特に新作オペラはほんの数回程度しか上演できません。また、多国籍・多言語の観客のために、英語などの字幕を映写するサービスが当たり前になってきており、このことからもわかるように、限られた層の専門的な知識を有する観客のための閉じた世界での芸術としてのオペラは、もはや生き残れないのです。
このプロダクションは、ある意味でこの時代のオペラのあり方に対するひとつの提言でもあります。
歌の本来の魅力に還るという意意図で、伴奏はギターを中心にいくつかの楽器を加えるにとどめ、歌手に音量のストレスを与えないようにし、繊細な声の表現を追求してもらうことにしています。ドラマチックな事件や物語を扱い、典型的な人物を登場させるのではなく、一人の人間の深層心理、矛盾、波乱を丁寧に描き出すことを目指しています。指揮者が率いるオーケストラではなく、ここでは一人一人の室内楽奏者が音楽を通して「語る」のです。彼らは主人公の悩みを共有し、観客もまた同じように悩みを分かち合います。もちろん、言葉の内容が重要であることに変わりはないですが、人間の言葉を話さない楽器の奏でる旋律や、ダンサー・俳優の動き、光と影などの「ことば」にも、言語と同等の重みがあり、結果として、非言語芸術としても成り立つ作品を目指しています。